大学2年の5月、私は早くも人生に行き詰まりを感じていた。
受験を戦い抜いて入学して、ようやく遊べるかと思ったら、遊べるには遊べるけど講義と試験は容赦なく難しい。それをクリアーして卒業できるとしても、その後も大変なことは目に見えている。今の時代、人間がやる仕事は人間でなければできないややこしい仕事や気を遣いまくったりする仕事だと相場が決まっている。
働く。結婚する。子供を持つ。
どんな人生を思い描こうと自由だけど、その自由が背中に隠している責任が見えるようになって、私にはそれが重かった。私は大人になんかなれるの?
私はその日、夕食の席で家族に泣きついた。
「こんな世の中も人生もいやだ~!! 責任なんて取れないよ!!」
「どうしたの、咲(さき)」
お母さんはご飯を食べる手を止めて私を見る。
「勉強して、来年入るゼミを決めて、卒論書いて、卒業して、働いて、そんなの無理だよ。こんな人生疲れた」
「おやまあ、何かあったの?」
おばあちゃんもテーブルの向かいから私の顔をのぞき込む。
「何もないよ。ちょっと大人になって世の中が見えるようになってきただけ」
「そう。でも人生に疲れたなんて言うのはまだまだ早いと思うけど?」
「美樹子(みきこ)さん、そうでもないよ、人が生きていく中で壁にぶつかったり疲れを感じるのは、早い人なら5才ぐらいからあることだよ」
おばあちゃんの隣の席でアデリーペンギン型の“おともだち”、アトラスが口をはさむ。
「へえ、5才。言われてみれば、私もそれぐらいの時は身体が弱くて生きて行くのに必死だったかもねぇ」
おばあちゃんは感心してアトラスに言う。
今でもおばあちゃんはアトラスが大好きだ。
アトラスはEUのモンデンキント社が造ったコンパニオン・アニマル・ロボット。コンパニオン・アニマル・ロボットは今は簡単に“おともだち”と呼ばれている。小さい頃、身体が弱かった美樹子おばあちゃん(当時は女の子)のために、親戚中がお金を出し合って買ったと聞く。
あまり外で遊べなかったおばあちゃんのために、オプションで世界中の地理データを買って、おばあちゃんに外の世界を見せたそうだ。アラスカのオーロラ、サハラ砂漠、万里の長城、ブルガリアのバラ畑。たいていの“おともだち”は白い壁やふすまがあればそこに立体映像を投影することができる。地図帳、それがアトラスという名前の由来だ。
「咲は家庭教師をがんばっているよな」
父さんが言う。大学生の古典的なアルバイト、家庭教師は今の時代も健在だ。私は働きたくて、自分の力を試したくて、家庭教師を始めてもうすぐ1年になる。好きなものが買えるのは楽しいし、父さん母さんに少しだけど生活費を入れられるのも誇らしい。
「実は、咲からもらっているお金は全部取ってあるんだ。それで、夏休みに旅行でもしてみたらどうだ? 旅行はいい、世界が違って見えるよ」
「……そんなの一緒に行ってくれる友達がいないよ…」
私はうつむいて答えた。同じ専攻やサークルの人たちとはうまくつきあっていると思う、でも一緒に旅行できるほど親しい人はいない。
「じゃあアトラスと行きなさいよ、それなら安心でしょ」
おばあちゃんは身を乗り出して言う。
「だめだよ、アトラスはおばあちゃんのものでしょう」
“おともだち”は人間のオーナーを決めていて、それ以外の人間とは区別する。オーナーの言うことならやっても、それ以外の人間が同じことを言っても断る、そういう区別をする。
「ユーザーに咲を追加すればいいのよ。ごはんの後で登録しましょ」
「待って待って、私、旅行に行くなんてまだ決めてないよ」
「行ってみたくない?」
お母さんが尋ねる。
「それは……」
私は口ごもる。行きたくないと言ったらうそだ。大学を離れて、都市を離れて、知らない土地を歩く、それはとても魅力的な考えに思えた。
「ユーザー認証にはオーナーの許可が必要です。まずはオーナーの美樹子さんから認証します。なお、今から集めるデータはクラウドには保存されません。ぼくの内部の機密領域に保存されます」
リビングで、アトラスがめずらしく事務的な口調で言う。
「顔写真を撮ります」
おばあちゃんはアトラスを両手で抱き上げ、目の高さを合わせた。
「指紋認証をします」
おばあちゃんはアトラスを下ろし、両手でアトラスの翼と握手をした。
「虹彩認証をします」
おばあちゃんは眼鏡を外し、アトラスの目をのぞき込んだ。アトラスが言う、
「楠瀬(くすのせ)美樹子さんであることを確認しました。美樹子さん、ユーザーを追加しますか?」
「もちろんよ」
おばあちゃんは大切なものを見る眼差しでアトラスと私を見る。
私の番だ。私は緊張しながら顔写真を撮り、握手をし、アトラスの目をのぞき込んだ。
「ユーザー登録のために声紋データが必要です。自己紹介して、ぼくの名前を呼んでください」
「……楠瀬咲です、アトラス、よろしくね」
「声紋データを登録しました。咲さんをユーザーとして登録しました。咲さん、なんて呼んでほしいですか?」
私は考えた。私の新しいお友達。今までの友達にはたいていみんな「さん」づけで呼ばれていて、それが少し淋しかった。
「咲、って呼んで」
今から100年ぐらい前、国連は人工知能に人格と生命があることを宣言した。それらはもはやコンピュータ上で動くプログラムではなく、人工生命であると。人格と生命を持つことは尊重されなければならず、安易に初期化したり廃棄することを禁止した。人工知能のプログラミングは教育であり、最新の倫理理論と世界中の法律と宗教を考慮し適用しなければらない、そう定めた。
子どもたちとも接するコンパニオン・アニマル・ロボットにはさらに厳格な規定が適用され、長く生きられるように設計され、いつでも修理ができるように定められた。だから、“おともだち”たちはとても長生きだ。
「アトラス、ひいおじいちゃんとひいおばあちゃんの映像を見せて」
私は民宿の部屋でアトラスに言った。これもユーザーになったからできることだ。
「どんな映像がいい?」
「おばあちゃんがまだ子どもで、家族みんなが映っているのがいいな」
「じゃあこれだね」
アトラスは白い壁に向かって座り、目を光らせる。
『ハッピーバースデー、美樹子ちゃん♪』
鮮明な立体映像が浮かびあがり、歌声が流れ出す。
カメラ(というかアトラス)のすぐ隣に座っている少女がおばあちゃんだろう。その前にはろうそくを灯したケーキが置いてある。その隣には大叔父、テーブルをはさんで小さなカメラを構えたひいおじいちゃんと、手をたたくひいおばあちゃん、映像はその4人をゆっくりと映し出してゆく。
“おともだち”が見聞きしたり会話したりして経験することの全ては(認証データのような例外を除いて)データとしてモンデンキント社のクラウドに保存される。家に来てから、家族に合わせて変化させたアルゴリズムもだ。
その意味では、“おともだち”は不死とも言えるのかもしれない。万が一の事故でボディが損傷しても、新しいボディにデータとアルゴリズムをインストールすれば、全く同じ人格がよみがえる。
でも、おばあちゃんはアトラスの太陽光発電パネルを内蔵し人工羽毛で覆われた再生ステンレス製の翼を愛しているし、くちばしの塗装が少しはげかかっているところにも思い出がある、と言っていた。“おともだち”はそれぞれが唯一無二の存在なのだ。
「ひいおじいちゃんもひいおばあちゃんも、もういないんだよね」
「そうだよ。お葬式の映像もあるけど、それは今日はおすすめしない」
「ひいおじいちゃんが最初のオーナー?」
おばあちゃんのようなケースだと、まずは大人がオーナーになって、“おともだち”と友達になる子どもがユーザーになる、という方法を取る。安全のためだ。
「そう。咲と、目の感じが似ているね」
「そうかな」
「咲、明日は海に行くんでしょ、暑くなりそうだし、もう寝たほうがいいよ」
おばあちゃんが「アトラスとなら安心」と言ったのはこういうことだ。ユーザーの健康チェックだけではなく、旅行スケジュールを覚えたり天気予報を教えてくれたりする。もちろん、といってもまず無さそうなことだけど、私に万が一のことがあればすぐに必要な機関に連絡してくれる。
そう、夏の盛りの8月、私はアトラスと一緒に南の島々を旅していた。都会を離れ、神様の飛び石のように弧を描く常夏の小さな島々を。今いる島からあと2つ島を渡れば、そこはもう外国だ。
「アトラスも海に行くんだよ」
「すごい楽しみ!」
私は驚いてこの不思議な“おともだち”を見る。楽しみ? ロボットが何かを楽しみにするなんて。私の驚きに気づいたようで、アトラスが説明する。
「ぼくは泳げるんだ。ぼくのモデルになったアデリーペンギンはすごく泳ぎがうまいんでしょう? ぼくも、お風呂で遊べるだけじゃないんだよ。海で泳げるようにしてもらったしね!」
そう言って、両方の翼を羽ばたくように動かした。その動きはしなやかで、確かにうまく水をかけそうだ。
“おともだち”はたいてい生活防水だけど、私とおばあちゃんはこの旅のために、アトラスの防水シールドを海水対応のそれにアップグレードした。私は初めて行くモンデンキント社のショップの親しみやすい店内で、いったい幾らかかるのかとドキドキした。見積りしてもらうと、それは私が夏のワンピースを一枚買うのをやめれば出せる程度の値段だった。
「長く大事にしてくださってありがとうございます」、ショップの店員さんは本当にうれしそうに私たちに言った。
次の日は朝から空は真っ青に晴れ渡り、翡翠(ひすい)色の海と響き合うように輝いていた。
今日は民宿で見つけた、地元の人たちがやっている一日のツアーに参加している。ボートで珊瑚礁まで出て、そこでシュノーケリングを楽しむのだ。
ボートは翡翠色の海をさっそうと渡ってゆく。海の透明度は高く、海面の下に広がる珊瑚は手を伸ばせば届きそうに見えた。
21世紀の人たちはむちゃくちゃがんばったと歴史で習った。温暖化は止まり、海面上昇も異常気象もじわじわと治まり、たとえばこの島の珊瑚礁もカラフルな海の楽園に戻っている。
私はハンディカメラを回して動画を撮った。この空間をみんなに見せてあげたい。
「アトラス、楽しんでる?」
カメラをアトラスに向ける。
アトラスは両方の翼を前に持ってきて、先を丸めて、双眼鏡をのぞいているような格好にした。
「楽しんでまーす、咲もごきげんだね!」
ロボットもふざけるのか。
「それじゃあここで1時間取ります。シュノーケリングを楽しんでください。それから、珊瑚礁の外には出ないように! 危険です!」
ボートを運転してきたおじさんが言う。私はカメラをバッグにしまい、水中眼鏡とシュノーケル、フィンを貸してもらう。泳ぎには自信がないので、救命胴衣も借りることにする。水着の上に半袖のTシャツとショートパンツを重ね、一応の日焼け対策をしてみた。
「じゃあ、行こう! アトラス、録画を忘れないでね!」
装具を身につけ、ボートのへりに手足をかけ、私とアトラスは海に入った。
手が届きそうに見えた珊瑚の連なりは、私の身長よりも深いところにあった。救命胴衣を借りて正解だ。澄み切った水の中で、私は色とりどりの珊瑚に目を奪われる。テーブルのような珊瑚の陰に、コバルト色の小さな魚たちの群れがいるのが見えた。近くに行ってよく見たいけど、救命胴衣でプカプカと浮かんでいるのでこれ以上近づくことができない。
驚いたのは、私が泳いでいても、私の影が落ちても、魚たちが逃げないことだ。私は水面近くからこの豊かな海を楽しむことにした。
その時だ。私の視界の右下から左上へ黒い影がすばやく走った。アトラスだ。器用に水中でターンしてこちらに向かってくる。私の胸に飛び込んでくる。
「楽しいね、咲!」
私もいったん水面に顔を出す。シュノーケルを外して答える。
「そうだね! 私は潜れないから、深いところにいる魚さんたちを撮影しておいて! それから、あと何分ある?」
「まだ30分以上あるよ!」
「ありがと!」
神様に愛されたような美しく豊かな海。そんな海に囲まれた小さな島々。私は生き返ったような気持ちでそこにいた。
シュノーケリングが終わると、ボートは島をぐるっと回って浅瀬に向かい、そこで停泊した。
「ここで昼食にします。屋台があるから、好きなものを召し上がってください」
私はサンダルを履き、アトラスを抱えて船を下りた。
そこは海水浴場らしく、遠浅の砂浜を上がったところに屋台が2軒並んでいた。ピタサンドの店とフルーツジュースの店だ。泳いで心地良く疲れた身には、どちらもとても美味しそうに見える。
ピタサンドの店では、薄く切ったきゅうりのような、緑色の皮をつけた透明な野菜が薄切りになって置いてあった。隣にはコロコロとした一口大の揚げ団子がボウルに盛られている。
「これはなんですか?」
「青いパパイヤと、ひよこ豆の揚げ団子です。ゴマだれとよく合うんですよ」
「じゃあ、それ1つください」
店員さんはてきぱきとピタパンを切り、パパイヤと揚げ団子を詰めてゴマだれをかける。お腹がぐぅ~と鳴る。
隣のフルーツジュースの店には、グァバジュースと、シークヮーサーのソーダと、パイナップルジュースと、パッションフルーツのジュースがあった。私は聞いてみる、
「この島で採れたのはどれですか?」
「全部だよ!」
「アトラス、どれがおいしそう?」
「泳いだあとの栄養補給にはグァバかパイナップルがいいんじゃないかな」
「おやまあ、ずいぶんかしこい“おともだち”だね!」
店員さんが笑う。私も笑う。私はお金を払ってパイナップルジュースのグラスを受け取った。
お昼ごはんを持って、遠浅の海が見えるように木かげに座る。
ここで過ごす私に責任があるとしたら、それは、受け取れるだけの恵みを受け取ることかもしれない、そんなことを思った。
ピタサンドの青いパパイヤはしゃきしゃきした歯触りで、ひよこ豆の揚げ団子とよく合った。ゴマだれのコクが泳いだあとの食欲にちょうどいい。ぱくついていると、ツアーのボートを運転していたおじさんが近づいてきた。私たちを見て、日に焼けた顔いっぱいでほほえむ。
「すてきな“おともだち”ですね、どこで買ったんですか?」
私は誇らしい気持ちで答える。
「おばあちゃんから借りた年代物なんです、かわいいでしょう?」
「なるほど、道理で! 今のものより昔のほうが造りがいいっていうのは本当ですね」
「そうですか? 新しいのも充分長生きするって聞きますよ」
「私も孫と妻にせがまれてるんです、“おともだち”がほしいって。この島には魚もいる、トカゲもいる、木々もある、神様もいらっしゃる。それで充分じゃないかって言うんですけどね…ああ、失礼だったらごめんなさい」
私は少し考える。
「うーん、コンパニオン・アニマル・ロボットは、生き物とは少し別のところにいるものだって私は思います。家族の中のいろんなことを見てくれて、覚えてくれて、ずっと一緒にいてくれる。それもいいものだと思いますよ」
“おともだち”には忘れるということがない。モンデンキント社のクラウドに保存された記録はオーナーの要請でアクセス禁止にすることはできても消すことはできない。それは、人とともに生きた記録はかけがえのないものだ、という思想による。その“おともだち”が受け継がれるかぎり、人々の思い出も受け継がれてゆく。
「そうですか。そう言われると魅力的だな。ちょっと考えてみます、ありがとう」
おじさんが離れてゆくと、アトラスは大げさにうつぶせになった。
「泳いだ~、緊張した~、充電する~~」
「そこは日が当たらないよ」
「ぼくにはこれぐらいの光でも充分なのです~」
私は笑ってパイナップルジュースに口をつける。よく冷えていて、甘く、とっても香りが濃い。
「いっしょに美味しいものが楽しめないのだけが残念だね」
「本社に寄せられる要望の第一位が“一緒に飲食ができるようにしてほしい”だそうです~~」
「それ、ほんと?」
「ほんとです~~」
私は笑った。旅は道連れ、たぶんほんとなんだろう。
「さっきのおじさん、お孫さんがいるんだね、そんな年に見えないけど」
「それがどうかした?」
「うーん、おじさんも、お子さんも、お孫さんも、こんな美しい恵まれた島に生まれてくるなんて、それはきっと運命なんだろうね」
アトラスは起き上がり、アデリーペンギンがそうするであろう仕草のように全身をブルブルっと震わせて、砂を落とした。私に向き直り、
「論理的に考えるなら、ある決定が運命の名のもとに行われるなら、それに選ばれなかったことも運命だ、ってことにならない?」
私は少し考える。
「ぼくが美樹子さんの家に買われて、その家に弥生(やよい)さんが生まれて、弥生さんが咲を産んで、ぼくたちは今こうして旅をしている。それは、充分に運命的だと思うけど。それもすごく恵まれた」
私はそれには直接答えず、
「昔っからね、こういう喩(たと)えがあるんだ。“人生は旅”ってね。それが分かった気がするよ」
「ふうん?」
この島に神様の恵みがあふれているように、都市にもきっと恵みがあって、私はそれを見つけて受け取ればいいのかもしれない。それが命を授かって生きていくことの責任なのかもしれない。
「アトラスはかしこいけど、私はまだまだ成長するんだ。旅に出る前に重荷に感じてたいろんなこと、もしかしたらもうちょっと成長したらできるようになるかもしれないんだ。それもきっと、恵みなんだ。生きて年を取っていくってことが」
「ちょっとぼくには切ない話だね」
アトラスはさびしそうに言う。私はパイナップルジュースを飲み干し、アトラスを抱きしめた。
「大丈夫! 時間はまだまだいっぱいある! 明日、何する?」
「おすすめのプランが3つありまーす!」
アトラスは、ほほえんだようだった。
(了)